Buch · こころ
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Autor: 夏目漱石
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停車場のある町から迎えた医者は私にこういった。私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。父は枕元へ
来て挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る
」母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
時とするとまた非常に淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」
私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が
卒業した日の晩の事であった。私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。あの時の「おれが死んだ
ら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし
口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度い
らっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変
るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」
私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人があるので自然家の出入りも多くなった。近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。中には比較的遠くにいて平
生疎遠なものもあった。「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠せていないじゃないか」などといっ
て帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
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