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Author: 夏目漱石

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第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生
の生前にたった二通の手紙しか貰っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私宛で書いた大変長いもの
である。
父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後
庭へ下りた事があるが、その時は万一を気遣って、私が引き添うように傍に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父
は笑って応じなかった。
私は退屈な父の相手としてよく将碁盤に向かった。二人とも無精な性質なので、炬燵にあたったまま、盤を櫓の上へ載せて、駒を動かすたびに、
わざわざ手を掛蒲団の下から出すような事をした。時々持駒を失くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中か
ら見付け出して、火箸で挟み上げるという滑稽もあった。
「碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は好いね、こうして楽に差せるから。無精者に
は持って来いだ。もう一番やろう」
父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって
、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が経つに伴れて、若い
私の気力はそのくらいな刺戟で満足できなくなった。私は金や香車を握った拳を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
私は東京の事を考えた。そうして漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状
態から、先生の力で強められているように感じた。

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