Book · こころ
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Author: 夏目漱石
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役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭うような私ではなかった。けれどもこういう用件で先生にせまるのは私
の苦痛であった。私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。あの依頼に対して今まで
返事の貰えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ
」「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。私が父
の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考えるだけ、胸に空地があるのかし
らと疑った。その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出のうちに、お前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れ
ないけれども、それにしても、まだああやって口も慥かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」
憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生から何を措いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床についてからは、退屈
のため猶更それを読みたがった。母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いようじゃありませんか」
兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑やか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。それでも父の前を外して私と差し向いにな
った時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」
「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」
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