Libro · こころ
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Autor: 夏目漱石
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「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満
足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望し
ているのです。しかし......」
私は変に悲しくなった。
「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」
先生は私の言葉に耳を貸さなかった。
「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の
心持を知っていますか」
私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧としてよく解らなかった。その上私
は少し不愉快になった。
「先生、罪悪という意味をもっと判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判
然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮していたのだ。私は悪い事をした」
先生と私とは博物館の裏から鶯渓の方角に静かな歩調で歩いて行った。垣の隙間から広い庭の一部に茂る熊笹が幽邃に見えた。
「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」
先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなか
った。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。
「また悪い事をいった。焦慮せるのが悪いと思って、説明しようとすると、その説明がまたあなたを焦慮せるような結果になる。どうも仕方がな
い。この問題はこれで止めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
私には先生の話がますます解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。
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