Libro · こころ
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Autor: 夏目漱石
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「つまり私のためなら、止して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭だからというご主意なら、そりゃまた別です。あなたがたに
不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」
「そう理屈をいわれると困る」
父は苦い顔をした。
「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」
母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか敵うどころではなかった。
「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」
父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生から私に対してもっている不平の全体を見た。私はその時自
分の言葉使いの角張ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。
父はその夜また気を更えて、客を呼ぶなら何日にするかと私の都合を聞いた。都合の好いも悪いもなしにただぶらぶら古い家の中に寝起きしてい
る私に、こんな問いを掛けるのは、父の方が折れて出たのと同じ事であった。私はこの穏やかな父の前に拘泥らない頭を下げた。私は父と相談の
上招待の日取りを極めた。
その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇のご病気の報知であった。新聞紙ですぐ日本中へ知れ渡ったこの事件は
、一軒の田舎家のうちに多少の曲折を経てようやく纏まろうとした私の卒業祝いを、塵のごとくに吹き払った。
「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」
眼鏡を掛けて新聞を見ていた父はこういった。父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ
行幸になった陛下を憶い出したりした。
小勢な人数には広過ぎる古い家がひっそりしている中に、私は行李を解いて書物を繙き始めた。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩るし
い東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。
私はややともすると机にもたれて仮寝をした。時にはわざわざ枕さえ出して本式に昼寝を貪ぼる事もあった。眼が覚めると、蝉の声を聞いた。う
つつから続いているようなその声は、急に八釜しく耳の底を掻き乱した。私は凝とそれを聞きながら、時に悲しい思いを胸に抱いた。
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