Livre · こころ
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Auteur: 夏目漱石
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しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間
か、さもなければお嬢さんの室で、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているの
かまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の昂奮を与えるのです。私は坐っていて変にいらいらし出します
。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思
案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、起って行って障子を開けて見る訳にはなおいきません。
私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さん
や奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで追窮する勇気をもっていなかったのです。権利
は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を裏切している物
欲しそうな顔付とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いました。それが嘲笑の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せ
るつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を見出し得ないほど落付を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたの
だ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。
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