पुस्तक · こころ
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लेखक: 夏目漱石
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十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐っている私をそっちのけにして立ち上が
った。そうして格子を開ける先生をほとんど出合い頭に迎えた。私は取り残されながら、後から奥さんに尾いて行った。下女だけは仮寝でもして
いたとみえて、ついに出て来なかった。
先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜った涙の光と、それから黒い眉毛の
根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐りでなかったならば、(実際それは詐り
とは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは感傷を玩ぶためにとくに私を相手に拵えた、徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっと
もその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならば
そう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合が抜けやしませんか」といった。
帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒が
はいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、先刻出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。
私はそれを袂へ入れて、人通りの少ない夜寒の小路を曲折して賑やかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから抽き抜いてここへ詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を
貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、昨夜机の上に載せて置
いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色のカステラを出して頬張った。そうしてそれを食う時に、必竟この菓子を私
にくれた二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
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