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लेखक: 夏目漱石

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私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽
微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺かされるたびに、もっと前
へ進みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前に満足に現われて来るだろうと思った。私は若かった。けれども
すべての人間に対して、若い血がこう素直に働こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな心持が起るのか解らなかった。それが先
生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨
拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほど
の価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと
みえる。
私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数があるので、そのうちに一度行っておこう
と思った。しかし帰って二日三日と経つうちに、鎌倉にいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に彩られる大都会の空気が、記憶の
復活に伴う強い刺戟と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばら
く先生の事を忘れた。
授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛みができてきた。私は何だか不足な顔をして往来を歩き始めた。物欲しそうに自分
の室の中を見廻した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。

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