Libro · こころ
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Autore: 夏目漱石
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私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家を想像して見た。この家から父一人を引き去った後は、そのままで立ち行
くだろうか。兄はどうするだろうか。母は何というだろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私
は母を眼の前に置いて、先生の注意――父の丈夫でいるうちに、分けて貰うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。
「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年
生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑さ」
私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐なような母の言葉を黙然と聞いていた。
私のために赤い飯を炊いて客をするという相談が父と母の間に起った。私は帰った当日から、あるいはこんな事になるだろうと思って、心のうち
で暗にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。
「あんまり仰山な事は止してください」
私は田舎の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好いといった風の人ばかり揃って
いた。私は子供の時から彼らの席に侍するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚しいように
想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張し
た。
「仰山仰山とおいいだが、些とも仰山じゃないよ。生涯に二度とある事じゃないんだからね、お客ぐらいするのは当り前だよ。そう遠慮をお為で
ない」
母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。
「呼ばなくっても好いが、呼ばないとまた何とかいうから」
これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる
人々であった。
「東京と違って田舎は蒼蠅いからね」
父はこうもいった。
「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。
私は我を張る訳にも行かなかった。どうでも二人の都合の好いようにしたらと思い出した。
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