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著者: 夏目漱石

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「なぜという訳もありませんが。......つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから......」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近
頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょ
う。まあ早くいえば老い込んだのです」
先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの手応えもなかった。私は先生を老
い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私はほとんど論文に祟られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年前に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたり
した。そのうちの一人は締切の日に車で事務所へ馳けつけて漸く間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど後らして持って行ったため
、危く跳ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を据えた。毎日机の
前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見廻した。私の眼は好事家が骨董でも掘り出す時
のように背表紙の金文字をあさった。
梅が咲くにつけて寒い風は段々向を南へ更えて行った。それが一仕切経つと、桜の噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のよ
うに正面ばかり見て、論文に鞭うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を跨がなかった。
私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠を抜け出した小鳥の心をもって
、広い天地を一目に見渡しながら、自由に羽搏きをした。私はすぐ先生の家へ行った。枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に、萌るような芽を吹いていた
り、柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めて
そんなものを見るような珍しさを覚えた。

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