本 · こころ
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著者: 夏目漱石
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買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっ
ては、ただ迷うだけであった。その上価が極めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいる
と、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせら
れた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わさなかったかを悔いた。
私は鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを威嚇かすには充分であった。
この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに一切の土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手
紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の料簡が解らないというよりも、その言葉が一種の滑稽として訴えたの
である。
私は暇乞いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意
を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなった
あとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州に
いる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら
繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは定めて心細いだろう、我々も
子として遺憾の至りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違
っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私
はまた先生夫婦の事を想い浮べた。ことに二、三日前晩食に呼ばれた時の会話を憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
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