言語

キーボード

185ページ中61ページ

著者: 夏目漱石

時間0:00
速度 (WPM)0.0
正確性100.0%

スタートを押して行を正確に入力してください。 · バックスペース無効 — エラー後も続行してください。

父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。
「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭いた。
父の元気は次第に衰えて行った。私を驚かせたハンケチ付きの古い麦藁帽子が自然と閑却されるようになった。私は黒い煤けた棚の上に載ってい
るその帽子を眺めるたびに、父に対して気の毒な思いをした。父が以前のように、軽々と動く間は、もう少し慎んでくれたらと心配した。父が凝
と坐り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。
「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。
「気じゃない。本当に身体が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」
私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。
「今年の夏はお前も詰らなかろう。せっかく卒業したのに、お祝いもして上げる事ができず、お父さんの身体もあの通りだし。それに天子様のご
病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」
私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間後であった。そうしていよいよ
と極めた日はそれからまた一週間の余も先になっていた。時間に束縛を許さない悠長な田舎に帰った私は、お蔭で好もしくない社交上の苦痛から
救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。
崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己も......」
父はその後をいわなかった。

スタートを押して行を正確に入力してください。

未開始