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著者: 夏目漱石

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私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支えないように、堅く括られたままであった。私はぼ
んやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。
私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥を命じた。
「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹に電報を打つ用
意をした。けれども寝ている父にはほとんど何の苦悶もなかった。話をするところなどを見ると、風邪でも引いた時と全く同じ事であった。その
上食欲は不断よりも進んだ。傍のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。
「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ」
私には旨いものという父の言葉が滑稽にも悲酸にも聞こえた。父は旨いものを口に入れられる都には住んでいなかったのである。夜に入ってかき
餅などを焼いてもらってぼりぼり噛んだ。
「どうしてこう渇くのかね。やっぱり心に丈夫の所があるのかも知れないよ」
母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いてい
た。
伯父が見舞に来たとき、父はいつまでも引き留めて帰さなかった。淋しいからもっといてくれというのが重な理由であったが、母や私が、食べた
いだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹の中で、お
そらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信だろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味
を書き込めた。
兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。といって、折角都合して
来たには来たが、間に合わなかったといわれるのも辛かった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」

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