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著者: 夏目漱石

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父は医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他の手で始末してもらっていた。潔癖な父は、最初の間こそ甚だしくそれを忌み嫌ったが
、身体が利かないので、やむを得ずいやいや床の上で用を足した。それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経るに従って、無
精な排泄を意としないようになった。たまには蒲団や敷布を汚して、傍のものが眉を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿
の量は病気の性質として、極めて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、
咽喉から下へはごく僅しか通らなかった。好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕の傍にある老眼鏡は、いつまでも黒い鞘に納められたまま
であった。子供の時分から仲の好かった作さんという今では一里ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といっ
て、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己はもう駄目だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあに
は死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。父は医者のお蔭で大変楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸が
できたという風に機嫌が直った。傍にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の
位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る訳にもゆかないので、黙って聞いて
いた。病人は嬉しそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹の夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立った。
父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらく躊躇するようにみえた。家のものは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと
思って、毎夜床にはいった。

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