本 · こころ
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著者: 夏目漱石
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この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐をかいていたが、こういい終ると、竹の杖の先で地面の上へ円のようなものを描き始めた。それが済む
と、今度はステッキを突き刺すように真直に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
先生の言葉は半分独り言のようであった。それですぐ後に尾いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答
えられなかったのである。すると先生がまた問題を他へ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の手蹟であったが、病気
の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見る顫えが少しも筆の運びを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう好いんでしょう」
「好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と
思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはず
がなかった。
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが
達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じ
ていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口に
した。
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