도서 · こころ
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저자: 夏目漱石
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「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。
「書生時代よ」
「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」
奥さんは急に薄赤い顔をした。
奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合の子なんですよ」といった。
奥さんの父親はたしか鳥取かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そうい
ったのである。ところが先生は全く方角違いの新潟県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からで
ない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。
先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、
ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶めかしい回想などを若いものに聞
かせるのはわざと慎んでいるのだろうと思った。時によると、またそれを悪くも取った。先生に限らず、奥さんに限らず、二人とも私に比べると
、一時代前の因襲のうちに成人したために、そういう艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっと
もどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。
私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描き得たに過ぎなかった。先生は美しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を
持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生にとって見惨なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知
らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。
私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人と
も私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。
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