도서 · こころ
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저자: 夏目漱石
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私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外に、何の不愉快もなく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つ
その夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でし
た。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には判然断りました。三度目
にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は単簡でした。早く嫁を貰ってここの家へ帰って来て、亡く
なった父の後を相続しろというだけなのです。家は休暇になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、そ
れには嫁が必要だから貰う、両方とも理屈としては一通り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく解ります。私も絶対にそれを
嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡で物を見るように、遥か先の距離に望まれるだけでした
。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲を取り捲いている青年の顔を見ると、世帯染みたものは一人もいません。みんな自由で
す、そうして悉く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の中にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すで
に妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方
でも、四辺に気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。後から考えると、私自身がすでにそ
の組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終りに、私はまた行李を絡げて、親の墓のある田舎へ帰って来ました。そうして去年と同じように、父母のいたわが家の中で、また叔父夫
婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで故郷の匂いを嗅ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。
一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
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