Boek · こころ
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Auteur: 夏目漱石
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さっきまで傍にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は
立とうとして振り返った時、その後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えてい
るか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。その戸棚の一尺ばかり開いている隙間から、お嬢さんは何か
引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端に、一昨日買った反物を見付け出しました。私の着物もお嬢さん
のも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反
問しなければ解らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私はなるべく緩くらな方が
いいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった
結果は、私の運命に非常な変化を来しています。もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書
き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です
。自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに
頼んだのです。ところが奥さんは止せといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立
った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の善いと思うところを強いて断行してしまいました。
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