Boek · こころ
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Auteur: 夏目漱石
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年の若い私はややともすると一図になりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が
有益なのであった。教授の意見よりも先生の思想の方が有難いのであった。とどの詰まりをいえば、教壇に立って私を指導してくれる偉い人々よ
りもただ独りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。
「あんまり逆上ちゃいけません」と先生がいった。
「覚めた結果としてそう思うんです」と答えた時の私には充分の自信があった。その自信を先生は肯がってくれなかった。
「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかし
これから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」
「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」
「私はお気の毒に思うのです」
「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」
先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座
敷からこの椿の花をよく眺める癖があった。
「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
その時生垣の向うで金魚売りらしい声がした。その外には何の聞こえるものもなかった。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路は存外静かであっ
た。家の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声
が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外
に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
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