Boek · こころ
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Auteur: 夏目漱石
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私たちはそれほど仲の好い兄弟ではなかった。小さいうちは好く喧嘩をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。学校へはいってからの専
門の相違も、全く性格の相違から出ていた。大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思ってい
た。私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったの
である。それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優しい心持がどこからか自然に湧いて出た。場合が場合なのもその大きな源因になっ
ていた。二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元で、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家の財産はどうなってるんだろう」
「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高の知れたものだろう」
母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。私は自分で質問をしておきながら、すぐ他の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」
兄は必竟聞いても解らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また
例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察して
いた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども
父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るとい
った風の口吻を洩らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっち
ゃ嘘だ」
私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。
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