Ksiazka · こころ
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Autor: 夏目漱石
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「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。
「何にもしていないんです」と私が答えた。
私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。
「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」
父はこういって、私を諷した。父の考えでは、役に立つものは世の中へ出てみんな相当の地位を得て働いている。必竟やくざだから遊んでいるの
だと結論しているらしかった。
「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」
父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。
「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。
「いいえ」と私は答えた。
「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いからお出しな」
「ええ」
私は生返事をして席を立った。
父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅い質問を掛けて相手を困らす質でもなかった。医者の方でもまた遠慮して何
ともいわなかった。
父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後のわが家を想像して見るらしかった。
「小供に学問をさせるのも、好し悪しだね。せっかく修業をさせると、その小供は決して宅へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するた
めに学問させるようなものだ」
学問をした結果兄は今遠国にいた。教育を受けた因果で、私はまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴はもとより不合理で
はなかった。永年住み古した田舎家の中に、たった一人取り残されそうな母を描き出す父の想像はもとより淋しいに違いなかった。
わが家は動かす事のできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある間は、動かす事のできないものと信じていた。自分が死
んだ後、この孤独な母を、たった一人伽藍堂のわが家に取り残すのもまた甚だしい不安であった。それだのに、東京で好い地位を求めろといって
、私を強いたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭でまた東京へ出られるのを喜んだ。
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