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作者: 夏目漱石

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「お目出とう」といって、先生が私のために杯を上げてくれた。私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言
葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの源因であった。けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆る浮々した
調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその笑いのうちに、些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいとい
う真情も汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持っ
て行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。
飯になった時、奥さんは傍に坐っている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の仕来りらしか
った。始めの一、二回は私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご飯? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯われるほど食欲が進まなかった
。
「もうおしまい。あなた近頃大変小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。
「これは宅で拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際で背中を障子に靠たせて
いた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?
」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお役人?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。

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